昭和45年3月?に書いた「六年生になって -文集2号-」を掲載いたします。
5年4組の後半に転入して来た 橋木本 勝義くんが登場しますが、卒業までに転校してしまったのかその後の記録が残っていません。情報持ち合わせる方はコメント欄に書き込み願います。
今回の原本は紙の日焼けは殆ど無かったのですが、ガリ版文字のインクが消えかかっていたので、前回同様スキャン画像から文章と挿絵だけを抜き出し強調化してから、前回使用した退色風の下版画像を組合わせ加工して各頁画像を作っています。
昭和45年3月?に書いた「六年生になって -文集2号-」を掲載いたします。
5年4組の後半に転入して来た 橋木本 勝義くんが登場しますが、卒業までに転校してしまったのかその後の記録が残っていません。情報持ち合わせる方はコメント欄に書き込み願います。
今回の原本は紙の日焼けは殆ど無かったのですが、ガリ版文字のインクが消えかかっていたので、前回同様スキャン画像から文章と挿絵だけを抜き出し強調化してから、前回使用した退色風の下版画像を組合わせ加工して各頁画像を作っています。
スレッドが違いますが、私の演奏を紹介していただき、ありがとうございます。また古い文集をアップしていただき、これもありがとうございます。懐かしいです。
さて橋木本君のことですが、かすかに覚えているので覚えていることを書きます。まず、名前ですが、橋本君と思い違いしていました。覚えている下の名前が同じなので、橋木本君のことだと思います。彼が数か月して転校して行ったことも覚えています。なぜ私の印象に残っているかというと、彼は珍しく再び転校して戻ってきたからです。彼と「忙しいやっちゃなあ」と話をしたことを覚えています。しかし、彼が戻ってきたのは若久小学校ではなかったのかもしれません。筑紫丘中学校に入ってからだったかもしれませんが、私は転校したために筑紫丘中学校を卒業していないので、名簿がありません。ということで、残念ながら私の記憶はここまでです。彼の顔はうっすらと覚えています。
修学旅行記ー文集3号ーの掲載作業中に「橋本勝義」名の作文を見つけました。果たして「橋木本」か「橋本」か、ホントのところを知ってる人はいませんか?