6年4組になって卒業まで半年もなくなった晩秋の11月24日から、各班持ち回りで学級新聞を作ることになりました。最初の号が何故か?「ゴリラ新聞」として発行されましたが、次号から卒業までの15号は「げんこつ新聞」と改められて発行されております。当時、名称についてひと悶着あったんでしょうか? 終版には須藤先生から中学生になるみんなに向けての言葉が綴られております。
学級新聞初号「ゴリラ新聞」編集:5班
学級新聞2号「げんこつ新聞」編集:6班
「げんこつ新聞」3号 編集:7班
「げんこつ新聞」4号….編集:1班
「げんこつ新聞」5号 編集:2班
「げんこつ新聞」6号 3班
「げんこつ新聞」7号 編集:4班
「げんこつ新聞」8号 編集:2班
「げんこつ新聞」9号 編集:1班
「学級新聞」9号? 編集:6班
「げんこつ新聞」10号 編集:2班
「げんこつ新聞」11号 編集:3班
「げんこつ新聞」12号 編集:4班
「げんこつ新聞」13号 編集:5班
「げんこつ新聞」14号 編集:6班
「げんこつ新聞」15号 編集:7班
途中から…今ならSDG’S的にも必ずや問題となるであろう自虐的とも言えるグループ紹介に変わる妙な学級新聞でしたが、さして問題化したような記憶はありません。最終発刊は1971年3月17日で、卒業式の2日前までおバカな話題にクラス中がみんなでつきあっておりました。
学級新聞のアップロードをありがとうございます。よく残っていましたね、驚きました。こういうものを作ったことを全く忘れていました。第3号の「八またのおろち」と「神武天皇と金のトビ」は、私が書いたものかもしれません。なんとなくこういうものをどこかで書いた記憶はあったのですが、学級新聞だったとは・・・。私は第9号と第11号にも記事を書いていました。こちらは全く忘れていました。
私は3班だったのですね、給食の時間に(班ごとに?)机を寄せて昼食を食べていたと思うのですが、なぜか私の記憶だと一緒に食べていたのは梶原さんと広末です。途中で班変えがあったのでしょうか?それとも出張していた?でも給食はいつも大笑いしながら楽しく食べていました。大げさに言えば、そういった楽しい思い出がその後の人生を支える一助ともなっています。